鑑賞が出来ない

目の見えない人は世界をどう見ているのかという本を読んだ。その中に目の見える人と目の見えない人が美術館で一緒に作品を鑑賞するソーシャルビューという試みが書いてあった。

ソーシャルビューではまず見える人が作品について語る。その際に重視するのは作品の形や客観的な情報ではなく本人の主観的な感想だ。それを聞いた目の見えない人たちはどう言った作品なのか想像しながら質問したり感想を述べたりする。このインタラクティブなやり取りの中で互いに作品の意図や意味を感じ楽しむ。このような美術鑑賞の試みがソーシャルビューである。

情報化の時代にわざわざ集まってみんなで鑑賞する面白さは、見えないもの、つまり「意味」の部分を共有すること

作品そのものを見るだけで得られるものはただのデータである。そのデータを受けた鑑賞者がそこにどのような意味を見出すのか。その共有を通じて目の見えない人は作品を脳内で立体的に補完し、さらにその補完した作品を受けてそこに自らの意味を見出していく。こういう営みだ。

作品を鑑賞するとは自分で作品を作り直すこと

「鑑賞する = 自分で作り直す」という文章に感銘を受けた。

というのも自分は鑑賞が苦手だからだ。映画やアニメや漫画などあらゆる物語に対してそのストーリーを追うことしかできない。キャラクターに感情移入することもないしストーリーの不自然さに苛立つこともない。だから深読みとか考察みたいなものもできない。登場人物のパラメータの暗記と筋書きを追うことで満足してしまう。

いわば"物語"という食べ物を食べても消化されずに排泄されてしまう感覚に近い。胃で消化されず腸で吸収されず体の一部になるような、そういう摂取の仕方が"鑑賞"なのだと思うのだけど、自分の場合は舌で感じた味くらいしか摂取できないわけだ。

大味なバトル漫画を読んだりするときは心臓がバクバクすることもある。スナック菓子を食べているような感覚。刺激の強い味はどんどん食べたくなるしよく噛まずに早食いになる。物語を異常な速度で雑に食ってると変なアドレナリンが出ちゃうのだと思う。

これは老化とか体調が悪いからとかそういうのは関係なくて昔からこんな感じである。むしろそういう自分に自覚的になってきた分まだマシだ。

鑑賞することは自分で作り直すということであるならば、自分は全く鑑賞が出来ていない。勿体無いなと思う。クリティカルシンキングだとか共感性の問題だとか、色々と理由はあるのかもしれないが浅い人間だな〜と感じてしまう。

そういえばオードリーのオールナイトニッポンで春日が何十年もジャンプを読み続けているがどの作品も誰々が強いとか弱いみたいな話だけで自分と作品との関係から出てくる感想とか考察みたいなものが一切なくて若林にdisられてたのを聞いてめちゃくちゃ共感と安心感を覚えた。俺だ〜〜〜となった。

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